
業務のデジタル化が進み、スマートフォンやチャットツールが普及した現代において、「いつでもつながれる」環境は、従業員にとって常に仕事から離れられないストレスを生み出しています。特に深刻なのが、勤務時間外の連絡による睡眠の質の低下です。産業医学の研究によると、業務連絡が届く可能性があると認識して睡眠をとる場合と、そのような連絡がないと認識して睡眠をとる場合では、体の回復度合いに明確な差が生じることが明らかになっています。
こうした背景から、勤務時間外の業務連絡から従業員を守る「つながらない権利」が注目を集めています。2026年の労働基準法改正で法制化される可能性が高まる今、人事・産業保健スタッフは早期に制度設計を始めることが求められています。本記事では、つながらない権利の基本から、導入メリット、実践的な制度設計のステップまでを解説します。
「つながらない権利」とは何か
つながらない権利(Right to Disconnect)とは、勤務時間外や休日において、従業員が仕事関連のメール・電話・チャットへの対応を拒否できる権利のことです。この概念は、2016年にフランスで労働法改正により法制度化されて以降、イタリア、スペイン、ベルギーなど欧州各国に広がり、現在では世界的な潮流となっています。
日本では現時点で法的義務化はされていませんが、働き方改革やテレワークの普及により、この権利の重要性が再認識されつつあります。連合の調査では、72.6%の労働者が「勤務時間外の連絡を拒否したい」と回答しており、ニーズの高さがうかがえます。
なぜ「つながらない権利」が必要なのか―従業員の睡眠と健康への影響
勤務時間外の業務連絡が従業員に与える影響は、単なる時間外労働の問題にとどまりません。
最も深刻なのが睡眠の質への悪影響です。
睡眠の質の低下がもたらすリスク
産業医学の研究によると、業務連絡が届く可能性を認識しながら睡眠をとる場合、たとえ実際には連絡が来なくても、心身の回復が不十分になることが分かっています。これは、脳が「いつでも対応できる状態」を維持しようとするため、深い睡眠に入りにくくなるためです。
実際、勤務時間外に業務連絡を受ける頻度が高い従業員ほど、以下のような健康リスクが高まることが報告されています:
- 睡眠障害:寝つきが悪くなる、夜中に目が覚める、朝の目覚めが悪い
- 精神的健康の悪化:ストレス増加、疲労感の蓄積、うつ症状のリスク上昇
- 集中力・判断力の低下:日中のパフォーマンス低下、ミスの増加
- ワークライフバランスの崩壊:プライベート時間の侵害感、仕事への不満増大
東京都の調査では、勤務時間外に業務上の連絡を受ける割合は7割以上に上り、そのうち6割以上の人がストレスを感じているという結果が出ています。
労働時間の見えない延長
勤務時間外の連絡対応は、たとえ短時間であっても「労働時間」とみなされます。しかし実態としては、こうした時間外対応が記録されず、残業代も支払われないケースが多く、労務管理上のリスクにもなっています。
2026年労働基準法改正を見据えた対応の必要性
現在、労働基準関係法制研究会を中心に、つながらない権利に関するガイドライン策定や法制化の議論が進められています。2026年の労働基準法改正では、約40年ぶりの大規模改正の一環として、以下のような内容が検討されています
- つながらない権利に関するガイドラインの策定
- 勤務間インターバル制度の義務化
- 副業・兼業における労働時間管理の明確化
- 週44時間特例の廃止
特に注目すべきは、つながらない権利の実効性を担保するための具体的なルールが示される可能性が高いことです。企業はこの動きを先取りし、早期に制度設計を始めることで、法改正後の混乱を避け、「働きやすい企業」としてのブランディングにもつなげることができます。
つながらない権利を導入する企業のメリット
つながらない権利の導入は、コストではなく「投資」です。以下のような多面的なメリットがあります。
1. 従業員の健康維持と離職防止
睡眠の質が向上することで、心身の健康が保たれ、メンタルヘルス不調のリスクが低減します。実際に、つながらない権利を導入した企業では、離職率の改善や心理的安全性の向上が報告されています。産業保健スタッフにとっても、長時間労働に起因する健康相談や産業医面談の負担軽減につながります。
2. 生産性と集中力の向上
勤務時間外の連絡が減ることで、オンとオフの切り替えが明確になり、従業員は勤務時間内に業務を完了させる意識が高まります。これにより、ダラダラとした残業や非効率なコミュニケーションが減少し、業務の生産性が向上します。
3. 採用力の強化とブランディング
ワークライフバランスを重視する求職者にとって、つながらない権利を導入している企業は魅力的な就業先となります。特に若手人材の採用において、「働きやすさ」は重要な選択基準となっており、採用競争力の強化につながります。
4. ハラスメントリスクの軽減
勤務時間外の連絡強要は、パワーハラスメントとして認定されるリスクがあります。特に、返信を強制したり、深夜に緊急性のない連絡をしたりする行為は、受け手のプライベートを侵害する行為と受け取られる可能性があります。明確なルールを設けることで、こうしたリスクを予防できます。
導入企業の成功事例
事例1:三菱ふそうトラック・バス株式会社
勤務時間外の連絡を制限し、緊急時のみ例外とするルールを策定。取引先にも協力を依頼し、業務時間外の連絡をなくしたところ、売上が4割増加したという成果が報告されています。従業員の集中力向上と効率化が、業績向上につながった好例です。
事例2:イグナイトアイ株式会社
テレワーク導入に伴い、「つながらない権利」を明文化。19時以降の業務連絡を原則禁止とし、チャットツールの通知設定をオフにすることを推奨。これにより、従業員のワークライフバランスが向上し、離職率が大幅に低下しました。
事例3:株式会社Lafool(ラフール)
全社リモートワーク導入時に、セキュリティソフトでの勤務時間管理とテキストコミュニケーションの心得を策定。長時間労働の予防と睡眠時間の確保を重視した結果、従業員の健康状態が改善され、生産性が向上しました。
産業保健スタッフが果たすべき役割
産業保健スタッフは、つながらない権利の導入において重要な役割を担います:
1. 健康影響のエビデンス提供
勤務時間外の連絡が睡眠や健康に与える影響について、科学的なエビデンスを人事部門や経営層に提示し、制度導入の必要性を説明します。
2. 従業員の健康状態のモニタリング
ストレスチェックや健康診断の結果から、勤務時間外労働と健康リスクの関連を分析し、改善提案を行います。
3. 管理職へのアドバイス
管理職が部下の健康に配慮したマネジメントができるよう、睡眠の重要性や適切なコミュニケーション方法についてアドバイスします。
4. 相談窓口の設置
勤務時間外の連絡に困っている従業員が相談できる窓口を設け、個別のケースに対応します。
まとめ―今こそ「つながらない権利」の制度化を
つながらない権利は、もはや欧米だけのトレンドではなく、日本でも現実的なテーマとなっています。2026年の労働基準法改正により、勤務時間とオフの境界を守る制度設計が必要になる可能性が高まっています。
特に重要なのは、従業員の睡眠を守ることです。睡眠の質が向上することで、心身の健康が保たれ、集中力や生産性も向上します。これは従業員個人の利益だけでなく、企業の生産性向上、採用力強化、離職防止といった経営基盤の強化にもつながります。制度を形だけ導入しても意味はありません。現場実態の把握、明確なルールづくり、管理職教育、運用体制の整備を段階的に丁寧に進めてこそ、つながらない権利は企業の真の強みになります。
人事・産業保健スタッフが中心となり、経営層、管理職、従業員が一体となって取り組むことで、従業員が健康で生き生きと働ける職場環境を実現しましょう。
参考情報