職場のメンタルヘルス対策に携わる人事担当者、産業医、保健師の方々にとって、「自殺予防」は最も重く、同時に避けて通れないテーマの一つです。ストレスチェック制度の運用、長時間労働対策、ハラスメント防止など、多くの施策が進められてきましたが、それでもなお、痛ましい事案が後を絶たないのが現実です。
こうした中で、近年あらためて注目されているのが「睡眠」という視点です。
職場で起きる自殺は、単に強いストレスがあるから、あるいは性格的に弱かったから起きるものではありません。多くの場合、うつ病などの精神疾患に罹患していることに加え、慢性的な睡眠不足が重なっているという共通点が見られます。
本記事では、なぜ睡眠不足が自殺リスクを高めるのか、そして「睡眠時間を増やす」という比較的シンプルな介入が、なぜ有効な自殺予防策になり得るのかを、産業保健の視点から解説します。

職場での自殺と「うつ病」「睡眠不足」の関係
これまでの研究や臨床現場の知見から、職場における自殺の多くは、うつ病や抑うつ状態を背景に起きていることが分かっています。そして、そのうつ病の経過を悪化させる要因として、非常に頻繁に見られるのが睡眠の問題です。
・寝つけない
・夜中に何度も目が覚める
・早朝に目が覚めてしまう
・睡眠時間が極端に短い
こうした状態が続くと、脳と心は十分に回復できません。
睡眠不足は単なる「疲れ」ではなく、抑うつ症状の悪化、感情の不安定化、衝動性の上昇、判断力の低下を引き起こします。
特に注意すべきなのは、睡眠不足によって「視野が狭くなる」点です。
十分に眠れていない状態では、「今の苦しさは永遠に続く」「もう逃げ場がない」といった極端な思考に陥りやすくなります。これは本人の性格や意志の問題ではなく、脳の機能低下による状態と考えるべきものです。
なぜ「睡眠時間を増やす」だけで自殺予防につながるのか
ここで重要なのは、自殺予防というと「専門的な治療」や「高度なカウンセリング」を思い浮かべがちですが、必ずしもそれだけではないという点です。
睡眠時間を確保すること自体が、強力な予防因子になることが分かってきています。
十分な睡眠がもたらす効果には、以下のようなものがあります。
- 脳と神経系の回復
- 感情調整力の回復
- 衝動性の低下
- 抑うつ症状の軽減
- 希死念慮の弱まり
つまり、睡眠は「心の土台」を立て直す役割を果たします。
どれほど良い支援制度や相談窓口があっても、本人が慢性的な睡眠不足に陥っていれば、その効果は十分に発揮されません。
言い換えれば、睡眠は最も基本的で、かつ実行可能性の高い自殺予防策なのです。
職場で見逃されやすい「睡眠のサイン」
産業保健の現場では、面談時に「気分はどうですか?」「仕事の負担感は?」といった質問が中心になりがちです。しかし、自殺リスクの早期発見という観点では、睡眠に関する情報は極めて重要な手がかりになります。
例えば、以下のような訴えがある場合は注意が必要です。
- 「最近、ほとんど眠れていません」
- 「平日は4~5時間睡眠が当たり前です」
- 「休みの日も寝だめができない」
- 「寝ても疲れが取れない」
本人が「忙しいだけ」「年齢のせい」と軽く捉えていても、背景にうつ病が潜んでいるケースは少なくありません。「眠れていない」という事実そのものが、すでにリスクサインであると認識することが重要です。
職場で実践できる具体的な対策
では、職場として何ができるのでしょうか。睡眠を切り口にした自殺予防は、決して特別な施策を必要としません。以下のような取り組みが現実的です。
1.長時間労働の是正と勤務間インターバルの確保
睡眠時間を確保するためには、まず物理的に「寝る時間」を奪わないことが前提です。長時間労働や短い勤務間インターバルは、最も分かりやすい睡眠阻害要因です。
2.深夜対応を前提としない職場風土づくり
深夜のメールやチャットが常態化している職場では、「休んでいい」という心理的安全性が損なわれます。形式的なルールだけでなく、管理職の行動が重要です。
3.面談時に「睡眠」を必ず確認する
定期面談や高ストレス者面談では、気分や業務内容に加えて、睡眠時間・睡眠の質を必ず確認することを習慣化しましょう。
4.不眠が続く社員を早期につなぐ
「眠れない状態が2週間以上続く」場合は、セルフケアの範囲を超えている可能性があります。産業医や保健師につなぐルートを明確にしておくことが重要です。
メンタルヘルス対策を「難しくしすぎない」
自殺予防というテーマは、どうしても重く、難しく捉えられがちです。しかし、「まずはしっかり眠れているかを見る」という視点を持つことで、職場の対応は大きく変わります。
睡眠は、誰にとっても分かりやすく、話題にしやすいテーマです。
「最近ちゃんと眠れていますか?」という一言が、結果的に命を守るきっかけになることもあります。メンタルヘルス対策を特別なものにしすぎず、睡眠という基本に立ち返ること。
それが、これからの職場における自殺予防の第一歩ではないでしょうか。
今後も本ブログでは、産業保健・人事の現場で実践しやすく、かつ本質的なメンタルヘルス対策について発信していきます。日々の取り組みのヒントとして、ぜひご活用ください。
参考文献一覧
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執筆者:小林 孝徳(こばやし・たかのり)
株式会社ニューロスペース代表取締役社長
一般社団法人 睡眠ヘルスケア協議会 代表理事
一般社団法人 日本睡眠教育機構 認定 上級睡眠健康指導士
著書:
①ハイパフォーマーの睡眠技術 Sleep Skill(実業之日本社)
②睡眠パターン×働き方で導く!あなたの良眠ナビ(池田書店)
③Forbes Japanオフィシャルコラムニスト 睡眠をアップデート
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